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船越 | 学さんは、どんな学生でしたか? |
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菅野 | やんちゃだったね。世間を左斜めから見てるかんじかな。(笑) |
大友 | 左斜め。(笑) |
菅野 | ただ、学ちゃんにとって、バンタンの2年間がその後の役に立ったかというと、そんなに役に立ってない気がするよね。 |
大友 | うん。まぁ、菅野さんですね。 |
菅野 | デザインのスキルというよりは、横と縦の繋がりをがっちりと掴んだタイプの人だね。 |
大友 | 基本、年功序列ですから、私。 |
菅野 | 授業には出てこなかったけども、出してくる作品は、腹が立つくらいクオリティが良いっていうね。 |
大友 | またまた。(笑) |
菅野 | 僕はバンタンの講師を16年やらせてもらったけど、学校の授業で教えるデザインと、社会の中のデザインという行為には、全然違うところがあるからね。 | 大友 | そうですね。 |
菅野 | いちばん大きなところは、対価が絡むというとこなんだけど、どこまでリアリティをもって授業を進めるのがいいかっていうことは、けっこう悩んだなぁ。 |
大友 | そうですよね。 |
菅野 | ただね、学ちゃんがすごかったのは、コンペに挑むところ。僕は常々、デザイナーとして伸し上がっていくためにはコンペで賞を取れと、学生に言ってたんだけど、それを最後まで実行したのが学ちゃんだったんだよね。 |
船越 | コンペはいつ頃から出してたんですか? |
大友 | 会社に勤めてる頃も出してましたね。富山のコンペ(富山プロダクトデザインコンペティション)と海南コンペ(デザイン・コンペティション海南)は、学生時代から続けて5年間くらい出してました。でも、もうあんまり覚えてない。 |
菅野 | 最初に取った大きな賞は富山だよね? |
大友 | それまで、入選はしてたんですけど、2次審査に進んで商品化検討作品に入ったのは2003年の富山が最初かな。 |
菅野 | それは何の作品だっけ? |
大友 | GUMHOOKです。 |
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菅野 | これかー。代表作だね。 |
大友 | 処女作ですね。 |
菅野 | そうだね。 |
船越 | その時代は、菅野さんとのお付き合いはあったんですか? |
大友 | なかったですね。 |
菅野 | 僕が覚えてるのは、日本インダストリアルデザイン協会で、深澤直人さんの講演会をやったときに、偶然学ちゃんに会ったのよ。でもあれ、久しぶりだったよね。 |
大友 | お台場ですよね。その頃の僕ね、深澤直人さんの追っかけしてたの。 |
船越 | そうなんですか。(笑) |
大友 | 追っかけというか、深澤さんが、「WHITOUT THOUT」っていう展示会のディレクションをやられてたんですよ。当時それが面白くって。 |
船越 | はい。 |
大友 | 初台のICCで初めての展示会があって、それを見に行ったら、次はJIDAで何かやるっていうから遊びに行ったの。 |
菅野 | 久しぶりに会って、驚いたのよ。 |
大友 | 僕、学生時代からオープニングパーティーとかを目ざとく見つけて、足繁く通うっていうのを日課にしてたので。 |
菅野 | これがすごいのよ。色んな人と名刺交換して。 |
大友 | そうなんですよ。 |
菅野 | ミキモトで一緒に仕事したのは何歳だっけ? |
大友 | うーんと。えーっと。思い出せない。(笑) |
菅野 | ミキモトの素プロジェクトのときに、萩原修さんから学ちゃんを紹介されたんだよ。 「大友学さんって知ってる?」 って。 知ってるも何も教え子だよ! って。(笑) |
船越 | 萩原修さんとは、いつ頃知り合ったんですか? |
大友 | 修さんは学生時代ですね。 |
菅野 | そうなの? |
大友 | 毎週金曜日にオゾン(リビングデザインセンターOZONE)に行くと、修さんが必ずいたから、会いに行ってたんです。 |
菅野 | そんなことしてたんだ。 |
大友 | 浅野泰弘さんとか梶本博司さんとか三浦英夫さんとか三浦秀彦さん、安次富隆さんとか小泉誠さんとか、みんないたんですよ。 |
菅野 | はぁー。そんな繋がりがあったんだ。 |
大友 | だいたいの方は面識ありましたね。学生時代は色んな名刺をつくって、毎週のように梶本さんと名刺交換してたの。 「名刺変えたんだ。」って言って、毎週。(笑) |
船越 | 毎週ですか。(笑) |
大友 | その後、富山コンペに行ける権利を得て、喜び勇んでお金を貯めて行くわけ。そしたら、オゾンにいた人が全員、会場にいるわけですよ。(笑) |
菅野 | あはは。(笑) |
大友 | 「君はこんなところまで何しに来たんだ?」 「あ、君もデザイナーだったの?」とか言われて。 たぶんそれまでは、ただ名刺を配ってる青年だったんだよね。(笑) |
菅野 | 名刺と年賀状と暑中見舞いね。 |
大友 | そうですね。名刺と年賀状と暑中見舞いは、セールスのように配ってました。 |
菅野 | 毎年の年賀状の凝りようがすごくてさ、だんだん楽しみになってきちゃってね。今年はどんなのが来るのかなって。(笑) |
大友 | 年賀状はお金かけてましたね。 |
菅野 | でもこれは、若い子たちが伸し上がって行くためのひとつの戦略だよね。 |
大友 | 年賀状って、あんまり知らない人から送られて来てもおかしくないじゃないですか。 |
菅野 | 今、twitterとかFacebookとかあるけど、やっぱり年賀状とか名刺ってひと味ちがうんだよね。 |
船越 | 年賀状も暑中見舞いも、上の世代に狙いを絞ったツールのように感じますが、意識されていたんですか? |
大友 | あんまり考えてなかったような気がするけど、とにかくそっちの世界に足を踏み入れたかったんだよね。だけど何もツテがないゼロの状態でさ、そこに近いように感じるところには、とにかく玉を投げまくる。(笑) |
菅野 | けっこう積極的なんだね。 |
大友 | そうですね。 |
菅野 | やっぱりそういう時期がないといけないんだな。 |
狙いを定めて玉を投げまくった学生時代。ほんわかした語り口とは裏腹に、かなり積極的な一面が見えてきました。次回は菅野さんとの初仕事のお話です。 |
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